【凛と花】
「桜の季節はまばたきをするかのごとく過ぎる」
ある晴れた春の朝
言葉少なな彼がそんな事を呟いた。
あまりの突然の呟きに、
一瞬、その言葉が自分にむけられたものでない気がして、七緒はあたりを見回した。
(平岡殿はいない……)
ならばやはり自分にむけて発せられたものだと確信し、取って付けた様に「そうですね」と返す。
「気の抜けた返事だ。」といつもの声色で言うものだから、思わずまぶたをぎゅっと閉じたしまったが、そっと瞼を開くと、その顔は思いの外優しかった。
「そ、そういえば、もう端午の節句ですね。」
「そうだな。だがあれば、子どもの行事だろう。」
「確かに…。上様も、小さい頃は、鯉のぼりとか、嬉しかったですか?」
「さて、どうだったかな。」
このお殿様は、自分の事となるとてんで話さない。
自分という人間を理解してもらおうなどと思っていない。それゆえに、噂と逸話が一人歩きする始末だ。
が、彼はそれすら気にしていない。気に止めるどころか、逆手にとっていた。
「上様はきっと、鯉のぼりなんかではお喜びにならなかったんでしょうね。」
「なぜ分かる」
「鯉が空を舞うなど、ありえない、と仰ってたのでは?」
「概ねあたっている。」
「概ね?」
これだけで、普段の一日分の会話をしたのではないか、そう思えるほど、今日の彼は饒舌だった。
「あの鯉のぼりというのは、家族であろう」
「家族?そうですね、父母子、ですね。」
その言葉を発した直後、七緒ははっとした。
そして、心臓を直に捕まれたような苦しさを感じる。
「家族」という言葉は、自分にとっても、彼にとっても、簡単に発せられるべきではなかった。
「私は物心ついた頃から、乳母と傅人(もりと)しか居なかったからな。家族というものが良く分からなかった。」
「ごめんなさい…私ったら…」
「案ずるな。家族を悲観したのではない。羨んだのでもない。父母なくして、私はいない。それだけで私は十分なのだ。」
「上様…」
彼の表情は、長い前髪で見えなかった。
しかし、悲しさも、空しさも感じられなかった。
「今ごろになって、頑固者の父を恨むことも無いことには無いが。」
慶喜の父、水戸斉昭の石のように頑固な尊皇攘夷は有名だ。
基本的には温厚な平和主義を求める慶喜にとって、実父である以上、敵にはできないし、味方にもなれない悩みの種だった。
それを軽い冗談のように、笑い交じりに話す彼はやはり、一歩も二歩も先を歩いているように思えた。
「ついでに言うと、口やかましい母も増えた」
「あ、それって…もしかして?」
「円四郎よ。」
迷惑そうな口ぶりとは裏腹に、
まるで故郷を懐かしむように、
彼は目を細めていた。
七緒はそれを素直に嬉しいと思った。
「で、では…!」
「うん?」
「私はなんでしょう?」
「何とは?」
「上様の、お父上でもなく、お母上でもなく……」
「ふむ……。」
腕を組み直した彼をみて、
七緒ははっとした。
自分はただの護衛、徳川家に雇われたただの忍びだというのに、上様の家族になろうとしている。
なんて大それた事を言ったものかと後悔したが、真剣に頭を掲げる彼の言葉を待った。
「そうだな……お前は、花、だな。」
「花、ですか?」
人じゃないことにあっけにとられる。
しかし、妹や、姉といわれた時には腰を抜かしただろう。
「お前は、見返りを求めず、ただ、そこに咲いている。」
彼は庭先に咲いている花を指差した。
「雨でも、風でもそこに居る。」
「う、嬉しいです!私を花に例えてくださるなんて!」
「まぁ華やかさには欠けるが……」
「うぅ…すみません。」
「水をやらねば枯れてしまうな。上手く育てねばならん。」
言うが早いか、彼は手水を持って庭先に水を巻いた。
新緑の芝に
鮮やかな花に
大玉の水滴が光る。
「大輪は咲かせずとも…」
「え……?」
「いや、何でもない。そうだな、何年ぶりか知れないが、柏餅でも食べるか。」
「いいですね。私、買いに出てきます。」
七緒は彼の言い掛けた言葉を追求はしなかった。
雨でも風でも、そこに居る花といわれた事が、彼女の心を十分に満たしていた。
土が水を吸う、爽やかな香りのなか、七緒は駆け出す。
その背中を見届けた慶喜は、その視線を空にむけた。
「大輪は咲かせずとも、凛として傍に居れば良い。」
昔みた鯉のぼりが、青空を舞った気がした。
おしまい。
[0回]
PR